沖縄の織物
沖縄には南国の豊かな気候風土と独自の歴史文化や地勢的要因によって育まれた、多様で個性的な数々の伝統織物が点在しています。多数の島々によって構成され、南方からの絣の技術が黒潮によってもたらされ、首里城の建築様式に見られるような中国の影響と琉球王朝の独自の文化や南国特有の植物等を利用した糸づくりや染色技術など、それぞれの島や地域によって独特の染織文化と技術が発達しました。
しかし、その陰に薩摩藩支配下において宮古島・八重山諸島では織物が人頭税として重く賦課され生産されていた暗い歴史があります。また、戦争により大らかな日常と多くの無形有形の遺産が失われてしまいましたが、染織に携わる方々は原材料や製作道具の乏しい中でひたむきに手仕事を続け、伝統の染織を復興してきました。創作への情熱は現在へ繋がり、それぞれの地域において、担い手の方々の努力によって伝えられています。
琉球紅型
琉球王朝の上級の婦人の衣服として用いられ、南国特有の強い鮮やかな色彩が特徴です。東南アジアやインドからもたらされた更紗の技法と中国からの型染めの技法を取り入れ、型紙によって防染糊を置き手作業で色を擦り込み、その後糊を落とす作業を何度も繰り返すことによって、琉球紅型独特の大胆な柄行きが鮮やかな色彩感の調和によって表現されています。藍の濃淡によって表現された物は「藍型」と呼ばれます。
首里織
首里は琉球王朝の城下町として栄え、王府の貴族や士族達が用いた格調高い織物が織られていました。紋織や絣等の様々な技法によって表現されますが、花倉織や道屯織は王家、貴族の専用のものとされ首里のみで織られていました。「首里織」という名称は首里に伝わる種々の紋織や、絣織物を総称する名称として、昭和58年国の伝統的工芸品指定の際に用いられるようになりました。
芭蕉布
糸芭蕉からとった繊維を糸にして織り上げます。糸芭蕉の栽培は成熟するまでに3年の月日を要し、こまめな世話が必要な重労働です。糸芭蕉1本から繊維は20gとれて着尺を一反製作する為に200本の糸芭蕉が必要とされます。皮を剥いで灰汁で煮て、繊維を取り出し、様々な工程と手間を経て貴重な糸となります。張りのあるさらりとした肌触りが特徴的な織物は「蝉の羽衣」と喩えられます。
第二次世界大戦後、人間国宝に指定された平良敏子氏らの努力によって戦争で途絶えた芭蕉布の技術復興が図られ、「喜如嘉の芭蕉布」として本島北部の大宜味村で生産されています。
宮古上布
沖縄本島から南西に300㎞の宮古島で古くから織られています。宮古島では15世紀には苧麻織物が作られていた記録が残っており、16世紀稲石刀自(いないしとぅじ)によって完成されたと伝えられています。
手績みの極細の苧麻糸によって織り上げられた、本製小千谷縮・越後上布と並ぶ最高級の麻織物です。その高い技術は17世紀、薩摩藩による琉球王朝支配下において人頭税による厳しい反数と品質の管理によって向上したと言う悲しい歴史をもっています。当時は貢布として琉球王府に納められた後、薩摩藩に納められ「薩摩上布」として流通していました。
大正時代になると大島紬の締機による絣技術がもたらされ、琉球藍による濃紺の緻密な絣柄が織り出されるようになりましたが、それを可能にしたのは高い苧績みの技術により極細の糸が作られること、多湿の気候が糸づくりや織に適していることなどの宮古島の織物産地の基盤があったからです。澱粉質の糊と丹念な砧打ちでの仕上げによる蝋を引いたような光沢は宮古上布の特徴です。
現在は締機による精緻な藍絣の宮古上布の他、昭和53年に国の重要無形文化財に指定された締機導入以前の技術による手括り絣の草木染の宮古上布も作られています。