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小千谷縮

縮は雪国で生まれ育った清涼感溢れる麻織物です。独特の(しぼ)が地風の特徴であり、肌触りはさらさらと心地よく、吸湿性、速乾性、通気性に優れ、高温多湿の日本の夏に最適な素材といわれています。苧麻と呼ばれる天然の麻糸を使い、緯糸に強い撚りをかけて、織り上げた後に湯もみをすることによって、小千谷縮のしぼが生まれます。

新潟県の魚沼地方では千数百年前から越後上布といわれる麻織物が織られていました。奈良の正倉院には750年頃に租税として納められた越後布が今も残っており、上質な織物として高名でありました。1670年頃の江戸時代初期、播磨明石藩から小千谷に移り住んだ堀次郎将俊が緯糸に強い撚りをかけて(しぼ)を出す技法を伝え、従来の麻織物に改良を加えた縮が完成したと伝えられています。その風合いと雪さらしによって純白に漂白された縮は夏の帷子の素材として高い評価を得、幕府によって正式な式服に指定されるに至り、その生産技術が周辺農村部へ急速に広まりました。天明年間(1781-1788)には越後全体で20万反の生産があったといわれています。

現在では、昔ながらの手績みによる苧麻糸の他に機械紡績による糸も使われ、糸使い、絣の技法、織機の種類によって「重要無形文化財の認定要件によって製作されたもの」「小千谷市指定文化財」「経産大臣指定伝統的工芸品」「それ以外の小千谷縮」が生産されています。

雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に晒す。
雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と人の気力相半ばにして名産の名あり、魚沼群の雪は縮の親といふべし。

鈴木牧之「北越雪譜」より

縮問屋として創業した西脇商店は、縮を理解し、縮に触れ、
縮を慈しむ ─── 会社の根本である縮の製品作りに拘り続けます。

重要無形文化財 本製小千谷縮・越後上布

小千谷紬・片貝木綿

小千谷紬

小千谷紬が織り始められたのは江戸時代中期。小千谷縮の技法を活かして絹織物の技法が発展し、昭和50年(1975)には国の伝統的工芸品に指定されました。
絹独特のしなやかな肌触りと美しい光沢を持つ小千谷紬は、雪深い小千谷の風土と人の手のぬくもりによって生み出された逸品です。玉糸と真綿を原料とする手紡ぎの絹糸を使い、摺込み(つき絣)によって一本一本緯糸を染めて絣をつくり、柄を合わせながら経糸と一緒に丹念に織り上げられます。総緯絣は緯糸の絣だけで模様を織り出す小千谷紬の代表的な技法です。

片貝木綿

片貝木綿は昭和20年代、柳宗悦氏の提唱した民藝運動の一環として、柳氏の指導のもと完成しました。片貝木綿は観賞用の美ではなく日常生活に溶け込んだ「用に即した美」という考え方によって生まれた織物です。
単糸使いに特徴があり、耐久性にすぐれております。着れば着るほどに柔らかくなって体に馴染んでいき、片貝木綿独特の素朴な風合いとぬくもりを感じることができます。

越後産地 織

本塩沢

(しぼ)と呼ばれる地風が特徴のさらりとした肌触りが特徴の絹織物であり、単衣に最適な織物です。経糸緯糸ともに生糸を使用し、緯糸に強い撚りをかけ織り上がり後の湯もみにより撚りが戻ることによって(しぼ)ができ、「塩沢お召し」と呼ばれるさらりとした風合いが生まれます。緻密で多様な絣の組合せによって構成された絣模様によって上品さと繊細さを表現しています。
昭和51年(1976)、国の伝統的工芸品に指定されています。

塩沢紬

経糸に生糸、玉糸を使用し、緯糸に真綿手紡ぎ糸を使用して、手くくり、手摺り込みによる絣糸を1本1本あわせて織り上げています。蚊絣といわれる細かい模様や十字絣、亀甲絣などの絣模様によって構成された柄行きは独特の落ち着いた上品さと風格を醸し出します。真綿糸の柔らかな風合いは着る程に身体に馴染み、長く御召し頂く程に風合いの増す織物となっています。
昭和50年(1975)、国の伝統的工芸品に指定されています。

栃尾紬

越後産地の紬の中では最も古い歴史を持ち、垂仁天皇(第十一代天皇)の皇子が国造りとなり、その妃が守門山の天然の繭を採って里人に織物を教えたことが始まりといわれています。手引きされた座繰り玉糸などを用いて、手織りや機械織りで織っていきます。栃尾紬の特徴の一つは緯糸と経糸の双方に紬糸を使うことです。その糸使いによって織りは大変高度な技術を要します。

十日町産地 織・染

十日町産地

十日町産地は「越後布から越後縮へ」、「麻織物から絹織物へ」、続いて「夏物産地からオールシーズン商品の産地へ」、さらに「後染め技術の導入」とニーズに合わせた新製品を開発するなど時代の変化に対応し、常に技術革新と市場開拓を繰り返しながら織と染めの総合産地として発展してきました。

十日町の織物

国内有数の豪雪地帯である十日町はかつて麻織物の産地でした。雪ありて縮ありと歌われたように、雪深い十日町地区の湿潤な気候は麻織物である越後縮の製作に適していました。松之山や松代地区には麻の糸づくりである苧績みや織りの越後屈指の名手がいたと言い伝えられています。
十日町が絹織物へ生産を移行し始めたのは江戸時代文化・文政時代です。徐々に絹縮(透綾)の製作が主力を占めるようになり、大正時代には盛夏の着物として一世を風靡した明石縮が誕生し、生産を通年化するため冬物の意匠白生地を開発、その後も十日町産地は絹織物の製作を積極的に進めてきました。
昭和57年(1982)、十日町絣と明石縮が国の伝統工芸品に指定されています。

十日町友禅

友禅染は江戸時代中期に宮崎友禅斎によって完成されました。高度な染め技法を用い、繊細かつ華麗に自然美を表現した世界でも類を見ない友禅染が、長い歴史を経て十日町に開花したのは昭和40年代のことです。元々は織物の産地であった十日町は友禅の分野に進出し、織りと染めの総合産地へと変貌を遂げました。友禅の職人、技術、設備など染めに関して何もなかった昭和30年代から出発し、十日町産地の友禅技法を確立する為に先人たちは試行錯誤を繰り返してきました。一貫生産システムによって友禅技術の導入に取り組んだことが特徴で、高い熟練度を必要とする生産工程を細分化し単純化することによって、コストパフォーマンスに優れた製品の生産を実現しています。伝統に学び創意工夫を凝らして染め上げられていく、十日町独自の友禅を創り続けています。

信州産地 織

信州信濃では古くから養蚕が盛んで、江戸時代初期には信州信濃の各藩が産業政策として奨励しておりました。農家で屑繭を紡いで自家用の着物を織ったことが紬の始まりとされ、生産地として発展してきました。信州紬は長野県全域で生産される織物の総称で、各産地によって名称の異なる個性的な織物が製作されています。

上田紬

生糸を経糸に真綿から紡いだ紬糸を緯糸に用いて織り上げます。
上田紬は強い生地で、八掛を三回取り替えるほど長持ちすることから別称「三裏縞」といわれています。
上田紬は色・柄・染めなど製作方法に特徴的な規制がないので定義付けることは難しいのですが、草木染め、化学染料、手織り、力織機と様々な製法を用い、自由に表現された紬といえます。

伊那紬

染めに使用する草木は地元伊那谷の植物だけを使用しています。
りんご、いちい、唐松、山桜、白樺などの樹皮、夜叉節、団栗、胡桃などの木の実、15種類以上の植物を組み合わせて自然な美しい色を染め上げます。経糸緯糸の組合せは数種類ありますが、緯糸には玉糸や真綿の手紡ぎ糸を用い、草木染めが織り成す繊細な色彩とふんわりとした風合いが特徴の紬です。

飯田紬

経糸緯糸共に無撚糸を用いて、経糸をゆるめて織り上げる織り方は「空気を織り込む」といわれています。無撚糸は滑らない糸ですから、そのように織り上げるには熟練の技術が必要とされます。草木染めの、柔らかくふっくらとした風合いのあたたかみのある紬です。

沖縄産地 織・染

沖縄の織物

沖縄には南国の豊かな気候風土と独自の歴史文化や地勢的要因によって育まれた、多様で個性的な数々の伝統織物が点在しています。多数の島々によって構成され、南方からの絣の技術が黒潮によってもたらされ、首里城の建築様式に見られるような中国の影響と琉球王朝の独自の文化や南国特有の植物等を利用した糸づくりや染色技術など、それぞれの島や地域によって独特の染織文化と技術が発達しました。
しかし、その陰に薩摩藩支配下において宮古島・八重山諸島では織物が人頭税として重く賦課され生産されていた暗い歴史があります。また、戦争により大らかな日常と多くの無形有形の遺産が失われてしまいましたが、染織に携わる方々は原材料や製作道具の乏しい中でひたむきに手仕事を続け、伝統の染織を復興してきました。創作への情熱は現在へ繋がり、それぞれの地域において、担い手の方々の努力によって伝えられています。

琉球紅型

琉球王朝の上級の婦人の衣服として用いられ、南国特有の強い鮮やかな色彩が特徴です。東南アジアやインドからもたらされた更紗の技法と中国からの型染めの技法を取り入れ、型紙によって防染糊を置き手作業で色を擦り込み、その後糊を落とす作業を何度も繰り返すことによって、琉球紅型独特の大胆な柄行きが鮮やかな色彩感の調和によって表現されています。藍の濃淡によって表現された物は「藍型」と呼ばれます。

首里織

首里は琉球王朝の城下町として栄え、王府の貴族や士族達が用いた格調高い織物が織られていました。紋織や絣等の様々な技法によって表現されますが、花倉織や道屯織は王家、貴族の専用のものとされ首里のみで織られていました。「首里織」という名称は首里に伝わる種々の紋織や、絣織物を総称する名称として、昭和58年国の伝統的工芸品指定の際に用いられるようになりました。

芭蕉布

糸芭蕉からとった繊維を糸にして織り上げます。糸芭蕉の栽培は成熟するまでに3年の月日を要し、こまめな世話が必要な重労働です。糸芭蕉1本から繊維は20gとれて着尺を一反製作する為に200本の糸芭蕉が必要とされます。皮を剥いで灰汁で煮て、繊維を取り出し、様々な工程と手間を経て貴重な糸となります。張りのあるさらりとした肌触りが特徴的な織物は「蝉の羽衣」と喩えられます。
第二次世界大戦後、人間国宝に指定された平良敏子氏らの努力によって戦争で途絶えた芭蕉布の技術復興が図られ、「喜如嘉の芭蕉布」として本島北部の大宜味村で生産されています。

宮古上布

沖縄本島から南西に300㎞の宮古島で古くから織られています。宮古島では15世紀には苧麻織物が作られていた記録が残っており、16世紀稲石刀自(いないしとぅじ)によって完成されたと伝えられています。
手績みの極細の苧麻糸によって織り上げられた、本製小千谷縮・越後上布と並ぶ最高級の麻織物です。その高い技術は17世紀、薩摩藩による琉球王朝支配下において人頭税による厳しい反数と品質の管理によって向上したと言う悲しい歴史をもっています。当時は貢布として琉球王府に納められた後、薩摩藩に納められ「薩摩上布」として流通していました。
大正時代になると大島紬の締機による絣技術がもたらされ、琉球藍による濃紺の緻密な絣柄が織り出されるようになりましたが、それを可能にしたのは高い苧績みの技術により極細の糸が作られること、多湿の気候が糸づくりや織に適していることなどの宮古島の織物産地の基盤があったからです。澱粉質の糊と丹念な砧打ちでの仕上げによる蝋を引いたような光沢は宮古上布の特徴です。
現在は締機による精緻な藍絣の宮古上布の他、昭和53年に国の重要無形文化財に指定された締機導入以前の技術による手括り絣の草木染の宮古上布も作られています。

黄八丈・吉野間道・郡上紬、他

黄八丈

目に鮮やかに輝くやまぶき黄金色、茶褐色の鳶、漆黒の黒。黄八丈は八丈島に自生する植物から染めあげる天然の色(黄、茶、黒)を縞・格子柄に織り上げています。黄色は、八丈刈安(コブナ草)の染液に糸を一晩浸し翌朝に絞って干します。この作業を約16日間繰り返してから、椿と榊の灰汁で媒染して黄金色に発色させます。茶色はマダミ(タブの木)の樹皮で染め、マダミの灰汁で媒染。黄色と同じく繰り返しが必要ですが、特に茶色(鳶)に関しては染めあげるまでに「晴天四十日」と言われるくらい時間と手間がかかっています。黒色は、椎の樹皮を煮た染液で染めてから泥染。八丈の泥は鉄分が多いため鉄媒染の効果があり、落ち着きと深みのある黒になります。
生地織は平織、市松織、綾織、丸まなこ、めかごと言う織柄が中心で地模様を出しています。かつて使用されていた柄見本帳(永鑑帳)によると500もの織りの種類があったそうです。最盛期の生産は一年で1500反でしたが、現在では700反程です。需要に生産が追いつかず主に受注生産体制に近い状態になっています。

吉野間道

吉野間道とは、名物裂の一つで「古渡り」の最上品に位置付けされる裂のことです。室町時代に南方から伝来した布地を茶人が珍重し、茶入れをしまう袋(仕覆)などに用いられました。江戸初期には京都の豪商灰屋紹益のお気に入りだった京都島原の吉野大夫に贈ったのが、名の由来という説があります。
現在、藤山千春氏はその布地の復元に取り組んでいます。恩師である柳悦孝氏(民芸運動家・思想家)の下で修業した後、自らの工房を構えて40年余。藤山氏は吉野間道の復元を基本としながら、草木染めを施し、独自のアレンジで作風を作り上げています。 吉野間道は平織の上に浮き織を縦緯縞柄にした、真田紐風に織ったものです。浮き織の部分は平織の倍の本数糸が入りますので、その部分は地厚になります。平織よりも絹の光沢が出て、草木染めの色がより鮮明になり、極めて美しい表情となっています。一方で平織の部分はそれより少し抑えた色味を醸し出し、平織りと浮き織によって布地の色彩にリズムが生まれることが特徴です。

郡上紬

郡上紬は岐阜県郡上八幡で織られている真綿の織物です。紬本来の素朴さを残しつつ、独特な染色法による草木染めの技法を用いた斬新な色柄が特徴的であり、一反一反を手機で丹念に織り上げた逸品です。
この地の織りの歴史は古く、奈良時代に平家の落人たちが野蚕糸、くず繭を紡ぎ、草根木皮などで染め、織り上げて自家用の普段着として着用してことが始まりです。その後、時代と共に衰退していきましたが、この地の農業開拓者であった宗廣力三氏によって、蘇り、復興しました。
宗廣力三氏は1982年に紬で初めて人間国宝に個人認定された人物で、途絶えそうになっていた地元の紬を改良して独自の技法を確立しました。古来からの草木染めに加え、糸繊維に染料の浸透を利用した独自の染織法(どぼんこ染)を見出し、この技法によってやわらかな暈し染や濃淡染めができるようになりました。現在は、長男の宗廣陽助氏が受け継いでおります。

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