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歴史

Our Story

 西脇商店は江戸時代安永二年(1773)に縮問屋として創業しました。小千谷の最有力縮問屋、西脇本家の次男新次郎が分家して西新の看板を挙げ、江戸行商で商いを興したことが始まりです。
 越後の麻布生産の歴史は古く、奈良の正倉院には750年頃に租税として納められた越後布が今も残っております。16世紀末、戦国武将上杉謙信公は麻布の原料となる青苧栽培を財源として強固な上杉家を築きました。上杉景勝に仕えた家老直江兼続は青苧の生産を奨励し、国替えとなった会津や米沢の地へも苧麻の栽培や織物の生産技術は引き継がれました。
 江戸時代後期、播磨明石出身の堀次郎将俊が従来の越後麻織物の緯糸に強い撚りをかけ、しぼを出す縮の製法を考案しました。夏に最適なさらりとした着心地により越後縮の評判が高くなり、江戸幕府が夏の式服に認定したことにより製造は急増しました。1780年頃の越後全域では20万反もの麻布を生産しており、縮取引の集散地であった当時の小千谷は数十件の縮問屋が軒を連ね、縮商いを通じて江戸と京都から文化、芸術、情報が伝達され、繁栄しておりました。

 そのような時代背景において、西新(現西脇商店)の初代新次郎は、西脇本家の江戸の顧客を一部譲り受けて営業を開始しました。1830年頃に江戸有数の縮店の株を買取り、日本橋の旅館を拠点に織物問屋業を営んでおりました。御三卿の一角、田安家をはじめ、江戸城周辺の大名や旗本を訪ね歩く一方、客筋を一般大衆にも広げました。江戸時代末期に西脇商店の五代目新次郎(幼名新助)が日本橋で活躍し、四代目市川左団次が初演した河竹黙阿弥作の「八幡祭小望月賑」の主役 縮屋新助のモデルとなっております。
 武家に愛用された縮でしたが、幕末に入ると社会情勢の変化は縮の生産へ影響を及ぼし、明治維新直前の生産量は10万反に半減しました。武家社会の崩壊を受け、西新は武家から町民へ得意客を切替え、販路の拡大に努めました。明治6年(1873)にはウィーン万国博覧会へ縮を出展し、その後上海へ輸出したと小千谷市史に記されております。しかし、麻織物は麻の紡績糸を取入れた製品を製作するなど転換期を迎えることになり、西新は麻織物に加えて絹織物の製作、販売を開始し徐々に拡大していきました。東京から十日町や小千谷に図案家を呼び、技術開発や織機導入に積極的に参加するなど、意欲的に新商品開発を行いました。明治40年(1907)に十日町支店を開設し、大正9年(1920)に株式会社化、社名を西新から西脇商店へ変更しました。
 八代目新次郎は織物を慈しみ、研究と製作に没頭しておりました。縮研究の集大成として著作「小千谷縮布考」「小千谷縮布史」を残しております。高度成長期を前に織物への意志を引き継いだ九代目新次郎は、手仕事の美しい織物を守るために産地を牽引し、本製「小千谷縮・越後上布」の重要無形文化財第一号認定[昭和30年(1955)]の運動に尽力しました。また、越後産地の質の高い物づくりに拘り続け、織物の技術革新のために絹織物の機業家と連携して様々な技術指導と支援を行っていました。民藝運動に通じ工芸品に造詣が深く、他業種と交流を重ねながら常に織物の製作に携わり、信念と情熱を持ち続け生涯を全うしました。

 現在は越後産地の縮や紬だけでなく日本各地の織物製品を取扱い、製造・販売する製造卸業の役割を担っております。現代表取締役の西脇一隆は新次郎家十一代目、丁寧に製作した質の高い物づくりを心掛け、品格のある美しい織物を追求しております。
 美しい清廉な織物を創る ── 歴史と伝統を守りながら、時代の変化に対応した織物の製作に拘り続けることは、240年以上変わることのない西脇商店の一貫した姿勢です。

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